ディスコは従来「不良」が行く所だったが、1978年は一般大衆に対して門戸を開く映画が上映された。
そう!それこそがジョントラボルタ主演 サタデイナイトフィーバーだった。
「学校では劣等生だけど、ディスコではキング」
自分は正に、主人公のTONYを地を行くような生活をしていたので、これはツボにはまった。
それまでは高校生でディスコに行くこと自体にどこか後ろめたさがあったが、この映画のおかげで正々堂々と行けるようになった。(法的には未成年で NGだったんですけどね)
上映間もなく、ディスコは連日連夜、超満員の芋洗い状態になった。
同時に、一見さん?らしき初心者の女の子も急増し、ますます美味しい思いができるようになってきた。
というわけで、それまではクラスの女子と純粋に踊りに行くことが多かったが、ナイトフィーバー以降はナンパ目的で男同士で行くようになった。
それから週3-4回ディスコに通った。
午後の授業は5時間目まででふけて、新宿へ直行。
3時からGETに行って、DJブースの横にあったインベーダーゲームをしながら標的を待つ。
4時前後にはちらほら女の子グループが入ってくる。
で、可愛けりゃ即効。早い者勝ちです。
で、ガールハントが成功したら、いっしょにメシ食いに歌舞伎町の大型ディスコにハシゴ。
よく行ったのは「インデペンデントハウス」「カンタベリーギリシャ館」「アップルハウス」
6時までに入れば1500円でフリードリンクフリーフードだから、貧乏な高校生の財布にもやさしかった。
でも、GETでハントした子よりももっとカワイイ子がいたりすると、その子達は置き去りにして、再度新しいお目当ての子の隣か前に行って派手にダンスを決める。
で、10時ぐらいの2回目のチークタイムまでに勝負が決着する。
チークタイムでお目当ての子と踊るために、ディスコタイムで目立つ!
そんな日々だった。
この頃はナイトフィーバーのステップが踊りたくて、映画を4回ぐらい血眼で見て覚えた。
これを完璧に踊れる奴はほとんどいなかったので、即キングになれた。
でも、それ以外はファンキーかおかまダンスだったので、自分はファンキーを極めようと思った。
そう!ディスコ世界選手権でハッピを着て優勝した、団忠明さんが憧れ。
彼のように手をグルグル回したり、ダウン入れたり、ロボットダンス入れたり、そういう踊り。
ファンキーフルーツにも似てるけど、もっと派手で激しい動き。
そういうのは、夜中「JUNとROPE」の提供で放送されていた番組「SOUL TRAIN」が教科書だった。
今と違ってビデオがないから、ひたすらパターンを脳裏に焼き付ける。
で、鏡の前でイメージトレーニング。
もう「人生、ディスコ」って感じだったな。
そんなディスコ黄金時代を象徴する曲は、和製ディスコ「Give It To Me / TOMMY THE BITCH」
新宿のディスコDJ軍団「U-DO」がプロデュースし、一晩二回ぐらいはかかっていた。
そして、ファッションはバギーにオープンシャツ+細身のネクタイをして、麻のジャケットを羽織る。
靴はプラットホームシューズかコンビのエナメルで、ヨーロピアンファッションと言っていた。
白のスーツ・ボウリングシャツ・ハーレムパンツもよく着てたな。
高校生でも、そんな粋なファッションでダンスがうまけりゃ、バンバン女の子から声をかけられた。
「踊り上手いね。私にも教えて!」「いいよ!」
複数の子をその気にさせといて、チークタイムでガチ会って気まずい思いをしたことも多々。
いずれにしても、まじでもてた。成功率100%。
そんな夢のような時代がなつかしい。